中学と高校の修学旅行はどちらも京都でした。世間知らずの典型だった私は、京都の修学旅行がどのような意味があるのか、高校3年生の時点ですら考えていませんでした。浅はかな学生の私には歴史も遠い、日本の文化も遠い、ましてや仏教や神社のことなど遠い遠い存在でした。
50代で夫が倒れた後、どこかへ連れて行きたくて、紅葉の京都を選び、京都駅から観光バスに乗車して穴場的な紅葉を堪能したことがあります。この時初めて心から京都を観光した気分でした。紅葉の景色が目的でしたが、それが本当に美しく今でも脳裏に残っています。この時は、夫も今とは全く違い(今は不可能)、杖をついて良く歩いてくれました。
今回は、中学、高校で行った京都の典型的な場所をもう一度行ってみたいと思い立ち、夫を預け一人で周ってみることにしました。学生の頃と違う自分の中の成長を何か感じられるのではとの期待も込めて。
智積院(我が家のお坊さんが真言宗智山派だそうでまずはここにお参り)、三十三間堂、清水寺、八坂神社、建仁寺、翌日に金閣寺、龍安寺、仁和寺という弾丸1泊旅行でした。
さて学生だったころから、私は成長しているかについてですが、「大いに疑問」というのが自分の答えでした。けれどただ一つ、大きく違ったのは、「金閣寺」が実に美しいと感じた事、鮮烈な景色として目に飛び込んできたことは成長なのかどうかはわからないけれど、旅の大きな収穫でした。それから、旅行を振り返るたびに、日本の文化や独自の景色や神社仏閣の美しさが美しいままずっと存続して欲しいと脳裏の映像とともに願う気持ちが湧いてくる、そんな点はわずかな成長なのかもしれません。