「蜜蜂と遠雷」読みました

今年の直木賞に選ばれた、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」を読みました。日本で3年ごとに開催される国際ピアノコンクールが舞台ということで、4人の出場者と、高名なピアニストでもある女性審査員を中心に、それぞれの生き方や人生の背景、音楽への考え方や感じ方、コンクール期間における音楽的感性の変化などが描かれています。

まず、面白かったのは、音楽を言葉に置き換えて見事に表現しているところでした。1次予選、2次予選、3次予選、本選とありますから、4名それぞれが弾く膨大な曲をどう表現するのだろうと思うのですが、その言葉の魔術に飽きることなく酔わされてしまい、さすが小説家だと感嘆させられました。

題名からしても、おそらく作者の一番描きたかった人物は、養蜂家の息子である少年ピアニストなのでしょう。彼は、放浪のような生活の中、ピアノも持っていないのにも関わらず、幻の天才大御所ピアニストから直接教えを受け、その推薦状を持っているという天才です。彼は小説の中で「ギフト」として存在します。コンクールを通して、彼を取り巻く他の天才ピアニストたちも、彼の音楽に大きく触発され、音楽的感性や考えが次第に深化されていきます。

作者は音楽の本質を、「時空を超え自由に対話することのできる、人間だけが持つことのできる霊的なもの」として捉えているので、純真無垢な自然児である天才少年、風間塵の演奏は音楽の本質そのものであり、「ギフト」となるのです。

しかし、この設定については、音楽に携わる凡人の私としましては、面白いけれど、メルヘンでもあるなと思います。どんな天才であっても、たとえ自身が作曲者であっても、自然児のまま、つまりピアノを練習せず勉強もせずでは、バルトークやラフマニノフやらのコンチェルトを弾けるようにはならないでしょう。また、コンクールという場で出場者が他人の演奏に純粋に感動し、その場でストレートに自己を真摯に捉えて変容させていくというのもメルヘンではないかと思うのです。加えて、この小説には商業活動という側面からの音楽の要素は皆無なわけで、それも現実的では無いように思います。

とはいえ、設定がメルヘンであっても、霊的な自由と自己の確立があっての表現は芸術の本質と言えますし、演奏者の描写は音楽の深淵を見るようで惹きつけられ、読む側としても読後に大きな「ギフト」をいただけたように思えました。